新世紀エヴァンゲリオン
春休みしかできないことをしよう。
そう思った私は、90年代日本文化の代名詞、新世紀エヴァンゲリオン全26話を一気に観た。
そう思った私は、90年代日本文化の代名詞、新世紀エヴァンゲリオン全26話を一気に観た。
康本雅子『チビルダ ミチルダ』(2)
康本雅子『チビルダ ミチルダ』(1)はこちら。
私はアナログの日記をつけていて『チビルダミチルダ』の内容と感想については、鑑賞したその日に長大なメモ書きを残している。
ただ、私にとってダンスは異国の言語のようなものだ。その場で見てとった一瞬、一瞬を体系だてて記憶していくということが出来ない。それゆえに、康本雅子の踊り跳ねるあの時あの場所というものは、文字通り一期一会の「体験」であった。
日記には、覚えている限り(相当いい加減な記憶をまじめに掘り起こした、という意味で)具体的に、愚直に物語の展開を綴った。踊り方ひとつとっても名前が分からないので、稚拙で恥ずかしいのだけど、ここに改めてまとめてみよう。
私はアナログの日記をつけていて『チビルダミチルダ』の内容と感想については、鑑賞したその日に長大なメモ書きを残している。
ただ、私にとってダンスは異国の言語のようなものだ。その場で見てとった一瞬、一瞬を体系だてて記憶していくということが出来ない。それゆえに、康本雅子の踊り跳ねるあの時あの場所というものは、文字通り一期一会の「体験」であった。
日記には、覚えている限り(相当いい加減な記憶をまじめに掘り起こした、という意味で)具体的に、愚直に物語の展開を綴った。踊り方ひとつとっても名前が分からないので、稚拙で恥ずかしいのだけど、ここに改めてまとめてみよう。
VOCA展2008シンポジウム 『輪郭なき時代の絵画』
チビルダミチルダのレビューが書きかけであるし、VOCAも全作品きちんとは見ていないので、多くは書きません。しかし、じゃあ何故記事を書くかといったら、シンポジウムが面白かったから。
酒井忠康を除く選考委員5名、高階秀爾、建畠晢、本江邦夫、逢坂恵理子、南嶌宏というそうそうたる顔ぶれ。平面作品というVOCA展の縛りから、映像・写真との対比を手がかりに絵画という形のありようが議論され、作品を絡めて話すにあたって客席の作家、推薦者からも言葉が出て、なかなか勉強になりました。
絵画うんぬんという本題の部分とはずれるけれど、作家はいくら口下手でもいいのですよ。良いものをつくる人は、作品に対して、体力と精神力と時間を注いでいる。つまり命を懸けているんだから。
ですから、それを取り上げて語ることを職とするなら、命を懸けて書かなくてはなりません。
それができないうちは、どんな作家に対しても一瞬たりとも驕ってはならないと思います。
カタログなど読んでいると、学芸員が寝不足で仕上げた文章には目を覆ってしまいたくなります。
しかしいざ自分が言葉を紡ごうとすると、これが途端に、その学芸員と同じ向きへ筆が流れようとするんですよね。かじった程度の異なる分野の言葉の引用とか、巨匠との対比とか、安易にそういう「もっともらしさ、確からしさ」に流れていってしまう。
作品を良いと感じたとき、理由を言語化する必要は無いし、それは不可能です。そこにわざわざ立ち向かって橋渡しをしようとするんだから、至らないのも当たり前で、たとえ至らないとしても、何よりも作品をよく見て、作品の周辺(作家、作家の過去の作品など)を見なくては。
よく考証せず、ぱっと連想した哲学者の文章なんか引用するなんて最低の行いです。
連想は核心へと至るきっかけではあるでしょう。私も連想のかたまりですし、秘密の日記レベルでそれを書き連ねています。しかし、そういうことばかり繰り返した時、本当のことが「見える」人間が出来上がるんでしょうか。
ただ食べることの快楽に酔い、誤りという余分どころか有害な脂肪をどんどんつけていくにつれ、フットワークは落ちていく。さらには歯磨きも怠ってしまったりして、味覚も麻痺し、咀嚼すべき歯もぼろぼろに。
そういう経過を経て、作品を見ただけで分かる、という気になってしまうのは、悲しいことです。
以上、自戒の意味を込めて。
『VOCA展 2008』
会場: 上野の森美術館
スケジュール: 2008年03月14日 〜 2008年03月30日
金曜日のみ19:00閉館。会期中無休
住所: 〒110-0007 東京都台東区上野公園1−2
電話: 03-3833-4191
酒井忠康を除く選考委員5名、高階秀爾、建畠晢、本江邦夫、逢坂恵理子、南嶌宏というそうそうたる顔ぶれ。平面作品というVOCA展の縛りから、映像・写真との対比を手がかりに絵画という形のありようが議論され、作品を絡めて話すにあたって客席の作家、推薦者からも言葉が出て、なかなか勉強になりました。
絵画うんぬんという本題の部分とはずれるけれど、作家はいくら口下手でもいいのですよ。良いものをつくる人は、作品に対して、体力と精神力と時間を注いでいる。つまり命を懸けているんだから。
ですから、それを取り上げて語ることを職とするなら、命を懸けて書かなくてはなりません。
それができないうちは、どんな作家に対しても一瞬たりとも驕ってはならないと思います。
カタログなど読んでいると、学芸員が寝不足で仕上げた文章には目を覆ってしまいたくなります。
しかしいざ自分が言葉を紡ごうとすると、これが途端に、その学芸員と同じ向きへ筆が流れようとするんですよね。かじった程度の異なる分野の言葉の引用とか、巨匠との対比とか、安易にそういう「もっともらしさ、確からしさ」に流れていってしまう。
作品を良いと感じたとき、理由を言語化する必要は無いし、それは不可能です。そこにわざわざ立ち向かって橋渡しをしようとするんだから、至らないのも当たり前で、たとえ至らないとしても、何よりも作品をよく見て、作品の周辺(作家、作家の過去の作品など)を見なくては。
よく考証せず、ぱっと連想した哲学者の文章なんか引用するなんて最低の行いです。
連想は核心へと至るきっかけではあるでしょう。私も連想のかたまりですし、秘密の日記レベルでそれを書き連ねています。しかし、そういうことばかり繰り返した時、本当のことが「見える」人間が出来上がるんでしょうか。
ただ食べることの快楽に酔い、誤りという余分どころか有害な脂肪をどんどんつけていくにつれ、フットワークは落ちていく。さらには歯磨きも怠ってしまったりして、味覚も麻痺し、咀嚼すべき歯もぼろぼろに。
そういう経過を経て、作品を見ただけで分かる、という気になってしまうのは、悲しいことです。
以上、自戒の意味を込めて。
『VOCA展 2008』
会場: 上野の森美術館
スケジュール: 2008年03月14日 〜 2008年03月30日
金曜日のみ19:00閉館。会期中無休
住所: 〒110-0007 東京都台東区上野公園1−2
電話: 03-3833-4191
康本雅子『チビルダ ミチルダ』(1)
やすもと・まさこ。
私が彼女を知ったのは、ほんの2、3年前のBTの誌面だった。
その時、私にとっての彼女のイメージは「女子校の、憧れの、話したことない同級生」になった。
彼女と私では確か7歳ぐらい離れているけど(3/16追記:これが驚いた、とんでもない嘘だった。しかも彼女は、今日が誕生日)先輩ではなくクラスメイトの設定である。その容貌の反面、見ていると不可解で、それだけに面白く、無条件に気にかかる。又聞きした感じでは、実際に話すとしたら意見や感覚が噛みあうか不安な相手だ。だけど気になってしまう。
(あとで知ったが、ささいな偶然ながら康本さんも私も女子校出身なのだ。)
私が彼女を知ったのは、ほんの2、3年前のBTの誌面だった。
その時、私にとっての彼女のイメージは「女子校の、憧れの、話したことない同級生」になった。
彼女と私では確か7歳ぐらい離れているけど(3/16追記:これが驚いた、とんでもない嘘だった。しかも彼女は、今日が誕生日)先輩ではなくクラスメイトの設定である。その容貌の反面、見ていると不可解で、それだけに面白く、無条件に気にかかる。又聞きした感じでは、実際に話すとしたら意見や感覚が噛みあうか不安な相手だ。だけど気になってしまう。
(あとで知ったが、ささいな偶然ながら康本さんも私も女子校出身なのだ。)
「横尾忠則のふたつめの壷」展
第一期:「横尾忠則の壷」展のレビューはこちら。
「ふたつめの壷」も見てきましたので、メモ書き程度に。
第二期「横尾忠則のふたつめの壷」展は、横尾の近作・新作で構成されています。
冒険物・温泉・宇宙・シュルレアリスム・Y字路といった横尾のリソースが、この個展だけでも何遍も反復されています。
最初期のピンクの女(よだれを垂らしたおかっぱの女の子)も、《理性と感性》というタイトルで登場しています。アクリルの軽いタッチ、色もパステル調で、女の子の表情も和らぎ、人間らしく見えます。でも、彼女の口内(いわゆるのどちんこ)にはピアスが。
性・暴力・霊魂といったキーワードはよく語られますが、どんな画面であろうと、支持体に原色の痛みやエロス、好奇心が根づいているのを感じました。
今回出ているもので良かったのは《ジュール・ヴェルヌの海》です。少年と深い宇宙の淵。余分な毒が無いところが好き。
赤を基調にした絵では、確か題名がクールベと同じ《世界の起源》だったと思うんだけど、好きな絵があります。マグマが血潮のごとく煮えたぎり、炎や光の粒が舞い上がる中、女性器から小さな赤ん坊が自力で出てくるさまを描いた絵。画集でしか見ていませんが、雨のY字路のような孤独感と懐かしさがありました。
ところで、度々繰り返されていた、男の首元に犬が襲いかかっている図(男は腰をぬかし、舌を突き出している)の初出が分からず気にかかる。
西村画廊では「温泉主義」展、春には世田谷美術館で「冒険王」展です。行かなくちゃ。
明日は待ちに待った康本雅子! 最近辛かったから、起爆力を貰いたいなぁ。
「ふたつめの壷」も見てきましたので、メモ書き程度に。
第二期「横尾忠則のふたつめの壷」展は、横尾の近作・新作で構成されています。
冒険物・温泉・宇宙・シュルレアリスム・Y字路といった横尾のリソースが、この個展だけでも何遍も反復されています。
最初期のピンクの女(よだれを垂らしたおかっぱの女の子)も、《理性と感性》というタイトルで登場しています。アクリルの軽いタッチ、色もパステル調で、女の子の表情も和らぎ、人間らしく見えます。でも、彼女の口内(いわゆるのどちんこ)にはピアスが。
性・暴力・霊魂といったキーワードはよく語られますが、どんな画面であろうと、支持体に原色の痛みやエロス、好奇心が根づいているのを感じました。
今回出ているもので良かったのは《ジュール・ヴェルヌの海》です。少年と深い宇宙の淵。余分な毒が無いところが好き。
赤を基調にした絵では、確か題名がクールベと同じ《世界の起源》だったと思うんだけど、好きな絵があります。マグマが血潮のごとく煮えたぎり、炎や光の粒が舞い上がる中、女性器から小さな赤ん坊が自力で出てくるさまを描いた絵。画集でしか見ていませんが、雨のY字路のような孤独感と懐かしさがありました。
ところで、度々繰り返されていた、男の首元に犬が襲いかかっている図(男は腰をぬかし、舌を突き出している)の初出が分からず気にかかる。
西村画廊では「温泉主義」展、春には世田谷美術館で「冒険王」展です。行かなくちゃ。
明日は待ちに待った康本雅子! 最近辛かったから、起爆力を貰いたいなぁ。
「わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」展
国立近代美術館は、私の最も愛する美術館かもしれない。
常設がこんなに面白い美術館は他には無い。私が近現代美術専攻で、尚且つ不勉強だからかも知れないが、いつ何度行ってみても発見がある。見応えも手応えもどっしりとしていて、2階まで降りてきた時にはへとへとに疲れる。疲れるけれど、新しく得た感想や思考を、あれもこれも忘れるものかと、頭をフル回転させる。
良い経験が確実に得られると分かっているので、私は気になる企画展示があると意気込んで出かける。
今回の「わたしいまめまいしたわ」。テーマは「自己同一性」の解体と再確認といったところ。
常設がこんなに面白い美術館は他には無い。私が近現代美術専攻で、尚且つ不勉強だからかも知れないが、いつ何度行ってみても発見がある。見応えも手応えもどっしりとしていて、2階まで降りてきた時にはへとへとに疲れる。疲れるけれど、新しく得た感想や思考を、あれもこれも忘れるものかと、頭をフル回転させる。
良い経験が確実に得られると分かっているので、私は気になる企画展示があると意気込んで出かける。
今回の「わたしいまめまいしたわ」。テーマは「自己同一性」の解体と再確認といったところ。
アウトサイダー・アート/戸來貴規
今日の芸大は、先端かどこかの入試だったよう。用があって行ったら、タイミング良く、時間まで受験生と被ってしまった。
午後4時、門を一歩踏み越えた瞬間に、
「お疲れ様でーす! シンビでーす」「お疲れ様でーすオチャビでーす!」
予備校関係者のパンフ攻めに遭う。私は、貴方たちと同じ学生だっての。
芸大には決して存在しない、春のサークル勧誘合戦とはあのようなものだろうか。ただ、くぐり抜ける誰もが、出来ることなら二度と入りたくないと思っている点が、大違いではある。
ところで、3月2日放映の「新日曜美術館」。特集は「アウトサイダー・アート」だった。
原美術館でヘンリー・ダーガーの個展があったのは去年の今頃だったか。私のこの枠組みに対する認識はまだ浅い。
午後4時、門を一歩踏み越えた瞬間に、
「お疲れ様でーす! シンビでーす」「お疲れ様でーすオチャビでーす!」
予備校関係者のパンフ攻めに遭う。私は、貴方たちと同じ学生だっての。
芸大には決して存在しない、春のサークル勧誘合戦とはあのようなものだろうか。ただ、くぐり抜ける誰もが、出来ることなら二度と入りたくないと思っている点が、大違いではある。
ところで、3月2日放映の「新日曜美術館」。特集は「アウトサイダー・アート」だった。
原美術館でヘンリー・ダーガーの個展があったのは去年の今頃だったか。私のこの枠組みに対する認識はまだ浅い。






