「諏訪敦 複眼リアリスト」展
11月の東京コンテンポラリーアートフェア2007以来、楽しみにしていながら、なかなか足を伸ばすことができていなかった諏訪敦の個展。
ようやく行くことができ、嬉しい限りです。
写実が凄いから諏訪敦はすごい、という言説には違和感があります。
そもそも、ご本人はそれをちっとも顕示していません。
それなのに何を見ても、あまりに「超絶的描写能力」「超絶技巧」と言い立てているので、とても変な感じがします。
もちろん、写実であることは諏訪敦の絵画の意味であり、鍵ではあるのですが。
私は、彼が底なしに巧いから、ではなくて、底なしに描き込むから、価値があるのだと言いたい。
彼の作品を見る時は、視線を幾らでも追い込んで下さい。
どこまでも応えてくれる絵画です。
――たとえ結局は《どうせなにもみえない》のだとしても。
展覧会は佐藤美術館の5階・4階・3階を使って行われていました。
5階では便利堂のコロタイプによる諏訪作品の複製とその過程を見ることができます。順に階段を下り、4階では初期作品と、舞踏家・大野一雄・慶人のシリーズ、Japanese Beauty、その他人物数点。3階では、より近年の二つのシリーズ、SleepersとStereotypeが展示されていました。
大野一雄のシリーズでは《大野一雄の幻視》(2000)が一番好きです。
老いた身体を包む皮膚は一面、さざなみのように繰り返す細かい皺でできています。
その無常な有り様を見て自然と、その先に続く幾つかのシリーズ(若い女性の姿)に対しても「老いのさざなみ」を文脈として読み込んでいました。
髪の毛の一本一本。カーディガンの網目のひとつひとつ。小さなほくろ、かすり傷や虫さされの跡。首筋の皺。胸についたブラジャーのワイヤーの跡。腕にあたってやわらかくつぶれた乳首。すこしだけ剃り残してしまった産毛。
貴方が女性ならば、諏訪の絵を見て自分の身体をありのままに思い起こすことでしょう。
男性には、多分幻想しか見ることができない。
少なくとも私には、他人の身体(の表面)をここまでまざまざと記憶する術が思いつきません。
諏訪が表面を追えば追うほど、そこには絵画であるがゆえの細かな不自然、歪みが浮きます。
しかし、諏訪はそこを修正しません。
写実とはいいますが、厳格に写実であろうとするのとは違う。彼の客観視は、彼の持つ限界の内側までです。皮膚の下の骨格を写しきることを、恐らく彼は目指していない。その意味で目標は「実体を写す」ことではないのです。
彼は己の見え方と描き方で制作をするだけです。観察し、細筆を動かす。極限にも見える反復が、冷たいまでに繰り返されます。
そこにあるのは、どこまでも「表面」であって、身体、ではないのです。
私は「Sleepers」の女性たちを見て、たまたま女性に生まれた自分の身体と身体性を思い出しますが、個人の血肉というものは感じません。
諏訪は恐らく、自覚しています。自覚した上で、実在の人物に対するアプローチを試し続けているのでしょう。
最新作「Stereotype」シリーズも、見事な女性像を見せてくれています。
それだけに私は、このシリーズに対する諏訪の姿勢を知らなければ良かった、と思ってしまいます。
「日本の女性に対する(主に外部からの)先入観を愚直に描写した時、物凄くリアルなのに『何ものでもないもの』が浮彫りになるのではないか」
と彼は語ります。
そういう問題設定を見た時、私はあまりにびっくりしてしまって、信じられないまま作品を見て回り、一番最後に見た《Whaling》(=捕鯨)というタイトルで、ああこれは、本気なんだ、と思って、なんだか腰砕けで会場を出ました。
何がステレオタイプかって、諏訪の思想そのものが物凄く「ステレオタイプ」です。
彼の狙いがその二重の写し込みであるとすれば、それはそれで面白いのですが、諏訪はそのような次元では語っていません。
しかし諏訪にしてみれば、あくまで彼の絵画の一過程なのでしょう。現代美術的な視野で問題提起するためではなく、まして切り結ぼうとしているわけでもないのなら、批判されるべきは汚れきった私なのかもしれない。事実彼は「南方熊楠の絵を見て、自分のやり方が現代美術的に染まるのが不潔に思えた」とアートトップのインタビューで語っています。
諏訪が描き続けるために必要な課題であるなら、今後を見守っていくまでです。
2月24日まで。
『諏訪敦 「複眼リアリスト」』
会場: 佐藤美術館
スケジュール: 2008年01月17日 〜 2008年02月24日
住所: 〒160-0015 東京都新宿区大京町31-10
電話: 03-3358-6021 ファックス: 03-3358-6023
ようやく行くことができ、嬉しい限りです。
写実が凄いから諏訪敦はすごい、という言説には違和感があります。
そもそも、ご本人はそれをちっとも顕示していません。
それなのに何を見ても、あまりに「超絶的描写能力」「超絶技巧」と言い立てているので、とても変な感じがします。
もちろん、写実であることは諏訪敦の絵画の意味であり、鍵ではあるのですが。
私は、彼が底なしに巧いから、ではなくて、底なしに描き込むから、価値があるのだと言いたい。
彼の作品を見る時は、視線を幾らでも追い込んで下さい。
どこまでも応えてくれる絵画です。
――たとえ結局は《どうせなにもみえない》のだとしても。
展覧会は佐藤美術館の5階・4階・3階を使って行われていました。
5階では便利堂のコロタイプによる諏訪作品の複製とその過程を見ることができます。順に階段を下り、4階では初期作品と、舞踏家・大野一雄・慶人のシリーズ、Japanese Beauty、その他人物数点。3階では、より近年の二つのシリーズ、SleepersとStereotypeが展示されていました。
大野一雄のシリーズでは《大野一雄の幻視》(2000)が一番好きです。
老いた身体を包む皮膚は一面、さざなみのように繰り返す細かい皺でできています。
その無常な有り様を見て自然と、その先に続く幾つかのシリーズ(若い女性の姿)に対しても「老いのさざなみ」を文脈として読み込んでいました。
髪の毛の一本一本。カーディガンの網目のひとつひとつ。小さなほくろ、かすり傷や虫さされの跡。首筋の皺。胸についたブラジャーのワイヤーの跡。腕にあたってやわらかくつぶれた乳首。すこしだけ剃り残してしまった産毛。
貴方が女性ならば、諏訪の絵を見て自分の身体をありのままに思い起こすことでしょう。
男性には、多分幻想しか見ることができない。
少なくとも私には、他人の身体(の表面)をここまでまざまざと記憶する術が思いつきません。
諏訪が表面を追えば追うほど、そこには絵画であるがゆえの細かな不自然、歪みが浮きます。
しかし、諏訪はそこを修正しません。
写実とはいいますが、厳格に写実であろうとするのとは違う。彼の客観視は、彼の持つ限界の内側までです。皮膚の下の骨格を写しきることを、恐らく彼は目指していない。その意味で目標は「実体を写す」ことではないのです。
彼は己の見え方と描き方で制作をするだけです。観察し、細筆を動かす。極限にも見える反復が、冷たいまでに繰り返されます。
そこにあるのは、どこまでも「表面」であって、身体、ではないのです。
私は「Sleepers」の女性たちを見て、たまたま女性に生まれた自分の身体と身体性を思い出しますが、個人の血肉というものは感じません。
諏訪は恐らく、自覚しています。自覚した上で、実在の人物に対するアプローチを試し続けているのでしょう。
最新作「Stereotype」シリーズも、見事な女性像を見せてくれています。
それだけに私は、このシリーズに対する諏訪の姿勢を知らなければ良かった、と思ってしまいます。
「日本の女性に対する(主に外部からの)先入観を愚直に描写した時、物凄くリアルなのに『何ものでもないもの』が浮彫りになるのではないか」
と彼は語ります。
そういう問題設定を見た時、私はあまりにびっくりしてしまって、信じられないまま作品を見て回り、一番最後に見た《Whaling》(=捕鯨)というタイトルで、ああこれは、本気なんだ、と思って、なんだか腰砕けで会場を出ました。
何がステレオタイプかって、諏訪の思想そのものが物凄く「ステレオタイプ」です。
彼の狙いがその二重の写し込みであるとすれば、それはそれで面白いのですが、諏訪はそのような次元では語っていません。
しかし諏訪にしてみれば、あくまで彼の絵画の一過程なのでしょう。現代美術的な視野で問題提起するためではなく、まして切り結ぼうとしているわけでもないのなら、批判されるべきは汚れきった私なのかもしれない。事実彼は「南方熊楠の絵を見て、自分のやり方が現代美術的に染まるのが不潔に思えた」とアートトップのインタビューで語っています。
諏訪が描き続けるために必要な課題であるなら、今後を見守っていくまでです。
2月24日まで。
『諏訪敦 「複眼リアリスト」』
会場: 佐藤美術館
スケジュール: 2008年01月17日 〜 2008年02月24日
住所: 〒160-0015 東京都新宿区大京町31-10
電話: 03-3358-6021 ファックス: 03-3358-6023
コメント
コメントの投稿
トラックバック
http://ykringringring.blog111.fc2.com/tb.php/33-6ee80d7e



