美術館・画廊・書籍メモ

行ってきた展覧会・読んだ本などの記録です。気が向いた時、気が向いた分書いています。 同じ展覧会に行った方、そうでない方も、お気軽にコメント・トラックバックしてください。

[通路] 閉幕

サンクンガーデン

 通路が終わった。
 この展覧会に関して、まだまともな批評を読んでいない。

 暮沢剛巳/難波祐子編著『ビエンナーレの現在』という本を読んだ。川俣さんがディレクターを務めた横浜トリエンナーレ2005について福住廉・難波祐子が文章を寄せているが、川俣正の作品/展覧会をつくる手法に対して、批評家の言葉が未だ追いついていないとの指摘が印象に残った(両者の文章もまた、状況を指摘するに留まっている)。美術批評の知見から測ろうとする評価の物差し自体が最早古びているとし、素人批評の時代の到来を高らかに告げている。

 文章全体についていくつか反論があるが、私が一番言いたいのは、鑑賞者(大衆)至上主義はおかしいということだ。
 展覧会のあり様そのものは、堅かろうが柔らかかろうが構わない。好みはそれぞれとして、それはキッチュもエンターテインメントも丸ごと飲みこんでしまった今日的な日本語「アート」の状況を反映している。
 しかし、テレビや映画を観るような態度で作品に接し、つまらなければ分からないといって場を離れてしまうような観客が、ビエンナーレ・トリエンナーレから絵画を奪っているのではないか。
 これはVOCA展シンポジウムで出た話題だが、今年の横トリには絵画作品の予定が無い……らしい(オーソドックスな内容に戻るという話だから、まさかとは思うのだが、事実は確認できていない)。
 気候などの条件から、国際展で絵画を見せるのは難しいともいう。ヴェネツィア・ビエンナーレは最たる例なんだろう。けれど、横トリのように人と期待の集まる機会に絵画をじっくりと見せないことには、結局あらゆる作品を「アート」という字面で受け止める観客が増えるだけで、絵画の豊かさが見過ごされてしまう。

 良いものを良いと責任を持って言えるのは、批評家や学芸員、美術をダシに食っている人間だけだ。
 通路が展覧会として成功した部類になるのか、私は自信がない。予定の人数を動員し、和やかに幕を閉じたことは確かだけれども、果たして何人が「美術館に通路を設けた」ことに対して思索を巡らせただろう。ちょっと、ベニヤと垂木の連なった構築物に対する視座が、ぼやけてしまったんではないだろうか。
 川俣さんが確か芸術は嗜好品だと言っていて、それはその通り、生理的・反射的に判断するのも結構なんだけれども、やっぱりこれは人間の営みだ。せめて、うろついた労力の分だけでも考えて出した結論であってほしいと思う。

 関係者のみなさま、意義深い展覧会をありがとうございました。
 撤去頑張って下さい。
 今後も各ラボのご活躍楽しみにしております。

 『川俣正[通路]』展

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コメント

美術をダシに

こんにちは。

>美術をダシに食っている人間だけだ。

批評家や学芸員で美術をダシともしないで、真剣に向き合っている人も中にはいるのではないでしょうか。
学芸員と言っても、時に言われる雑芸員みたいな人もいれば、ほとんど展示の企画などに忙しくしているキュレーター的な学芸員さんも存在すると思われます。
また、評論家と言っても評論するばかりではなく、研究することに力を注いでいる方も沢山いるのではないでしょうか。
私が思うに、

>良いものを良いと責任を持って言えるのは

批評家や学芸員、美術をダシに食っている人間ではなく、美術家本人ではないかと。
自分の作品が悪いものだと思って作っている美術家はいないのでは。
評論家や学芸員に高く評価されるのは美術家にとっても嬉しいことだと思いますが、最終的には作った本人しか最終的な、良いという判断を下すことが出来ないのではないかと。
そして、忘れてならないのは、観客なのではないでしょうか。
観客が良いという好印象を持つか、持たないか。
作品が好きか好きか嫌いか、良いと思うか悪いと思うか、はたまた、そのどちらでもないか。

美術をダシとして食おうと思っている人がいたとします。そうして食おう、つまりはそれで生活をしていこうとなると、並大抵の努力では食べていけないのではないかと思うのが私の意見です。
また、良い・悪いは別問題として考えると、やはり評論家や学芸員がいるからこそ美術の歴史が書かれて、記録されていくと思うのです。
評論家、学芸員がいるからこそ、作家や作品が世の中に知られる機会があるというものです。
もちろん作家自身が文章を書き、作品解説・分析をする場合もありますから、その際には評論家や学芸員は作家の解説には、かなわないというのは本当のところでしょうけど。

美術をダシに・・・例えば、ある作家の作品を、後々高く売れるかもしれないからという理由で買う人は美術をダシにしていると言えると思います。ダシといよりビジネスですね。
それでも、買ってもらえるだけ嬉しいと思う作家やギャラリーの方が多いのが現実ではないでしょうか。

初めまして。

 貴重なコメント有難うございます。

 美術をダシに、という言葉が最大の誤解を生んでいます。確かに、批評家・学芸員を蔑んだものと取られても仕方ありませんね。
「美術(に関わること)でおまんま食べている」という程度のくだけた発言のつもりでしたので、不快な思いをさせていたら申し訳ありません。

 私は学芸員を志望していますから、彼らを揶揄するつもりは全くありません。批評家や美術ジャーナリストはともかく、私がこれまで出会い、携わった学芸員は全員がとても精力的で隙がなく、尊敬できる方です。いずれは彼らのようになりたいと思っています。
 ここで言いたかったのは、個々人の仕事の善し悪しは別として、ひとつひとつの文章や発言に生活をかけている(勿論魂をかける人も居るでしょうが、少なくとも……という意味で)プロの言葉は、鑑賞者のそれとはやはり性質が異なるのではないか、ということです。

>批評家や学芸員、美術をダシに食っている人間ではなく、美術家本人ではないかと。

 まさに同じことを私も考えていたことがあります。といっても、じゃむさんの仰るのとは少し違い、「誰の、あらゆる作品に対しても」作家だけが、忌憚なく良し悪しを語りうるのではないか、と。作品や作家と全くのフェアでありうるのは、同じ制作者である作家だけですから。今もこの問題は頭の片隅にあり、そのため私は物書きをけなすことはあっても、作家をけなすことは滅多にしません。制作を続けているというだけで尊敬に値するからです。

 作家本人しか責任をもって良いという判断は下せない、ということですが、しごく素直で筋の通った考え方だと思います。
 良いとか価値があるという言葉について追求するときりがありませんが、ここでは主観的に良い、と言い切ることについての議論としましょう。
 確かに作り手は唯一作品に主観を持つことが許される存在であり、彼が自分のある作品を傑作だと言うならば、その言葉は理解をもって受け止められるでしょう。じゃむさんは、そこに漂う絶対性を重視して「作家本人」を尊重するのかもしれません。
 ただ、その作品が実際に傑作として(少なくとも彼の人生における傑作として)公に認められるかは別です。そこには必ず他者の主観が関わってきます。だからこそ、じゃむさんが仰る通り、観客の主観はとても大事です。もちろん、観客の中には批評家や学芸員に(ひょっとしたら作家にも)劣らぬ知識と使命感を備えた方も居るかもしれません。前述の通り、プロとして自分の仕事に誠意を持つべき人々の下す評価とは基本的には性質が異なっていますが、「良いものを良いという」行為が、生業に責任を持つことや、それに等しい行為(極端な話、文字通り命をかけるとか)である場合、ある意味では作家でも他者でも責任は持てますね。
 本文ではベンヤミンの言う、映画的・TV的な「怠惰な観客」との比較として批評家や学芸員の言葉(批評行為)の重みを指摘していますので(つまり、TVを観るような態度で絵を観る観客に「自分はその絵を語れるんだ」と思ってほしくないのです)、作家・批評家・観客のいずれかを軽んじているわけではありません。
 良いものは良いんだ! と声をあげることは、等しく価値ある行為だと思います。

 以上、充分な回答になっていますか?
 本来なら、美術作品を投資対象と見るような輩を「ダシにしている」と言うべきでしたね。作品を所有したとしてもそれは借り物であって、いつかは公に還るべきものだ、という意識は過去のものなのかもしれません。

お返事ありがとうございます。

ユコさん、こんにちは。
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
このような対話、とっても勉強になります。

>美術をダシに、という言葉が最大の誤解を生んでいます。

なになにをダシにして・・・という表現は、料理で使用される、例えば・・・『かつおをダシにして美味しいお味噌汁を作る』とかの場合に使用されるぐらいがポジティブな『ダシ』で、それ以外では、ありまりポジティブな表現には使用されていないと思います。
ネットで検索されると解っていただけると思うのですが。
そのため、ユコさんの考えとは全く違う方向で受け止めていました。


>TVを観るような態度で絵を観る観客

ベンヤミンの言っていることも非常に良く解るのですが、同時に、TVを観る様な軽い、気軽な感覚で美術館やギャラリーを訪れる人が増えれば、それはそれで楽しいと私個人的には思えます。
そのぐらい、開けた心を持ってコンプレックスなしに作品を観て、観客が色んなことを自由に感じれれば良いと。
確かに、大勢の人が集まるから良い展示だとか、良い美術館だとも一概には言えませんけどね。(^^;
もっとも、何が良く、何が良くないのかといったことの議論には終わりは無いことを踏まえて。

例えば、金沢21世紀美術館などは、街の人々が『エプロンつけたまま寄れるような美術館』(正確ではないと思いますが)といったようなスローガンとかキャッチコピーのようなものを謳っていたと思います。
ベンヤミンは1940年に亡くなっていますね。
あれから、時代も変化し、美術の歴史も常に書き加えられていて、1940年以降色んな美術の形が生まれたことを踏まえると、美術評論の歴史にも変化が生まれて当然ではないかと思うのが本音です。
ベンヤミンを否定・非難しているわけでは全くありません。


素敵な学芸員になってください。(^^
私の個人的な希望ですが、観客と楽しい会話ができる学芸員さんは本当に良い仕事をされているなと日ごろ感心しています。

こちらこそ、ありがとうございます。

久々に、携帯からここを覗いてしまいました。

ダシにする、という表現に関しては全くその通りで、私の言葉が迂闊でした。
言い訳するなら、身内を格下げするような慢心からの言い回しです。放埒に発言したい気持ちが文章に緩みを呼んだのだと思います。反省です。

エンターテイメント、観客参加、大いに結構だと思います。
アートという言葉は器のようなものだと考えています。時代や場所によってその意味や意義は絶えず変わり続けるものでしょう。21世紀美術館のようなサービス型事業(副館長がそのように言っていました)は楽しいですし、お客さんの笑顔が見られるので好きです。ハコと中身が合致していれば問題ありません。
作品を受け止める態度が完全に自由であるという点でも、じゃむさんと考えが一致します。TVのように楽しむ観客を止めたりはしません。補足としてベンヤミンを引っぱりましたが、彼はむしろ「怠惰な観客」を新時代(おっしゃる通り、20世紀半ばのです)の希望として捉えていますしね。
私はただ、観客の自由な態度を過剰に重んじる「観客主権」が好きではないのです。そのようなあり方が望ましい場合と、そうでない場合があります(勿論、作家や学芸員にシフトし過ぎることも嫌いです)。
観客を絵画の視座に導く、教育する、という願いをこめてキュレーションした上で、観客の態度には我関せず、とするのが、基本的には私の理想です。

ここで一旦失礼しますね。わき道に逸れた文章になっているかもしれませんが、書き直したくないので、お返事の続きはまた新しいコメントで。

書きました。

 もったいぶったように追記しますが、改めて読み返したら、本題はあらかた言い終えていました。
 ひとつだけ。実践性・応用性だけに関して言えば、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』は半ば死んでいますが、「怠惰な観客」は依然生きている、というか、その問題はある意味で彼の楽観的意見の通りに深刻化していると思いますよ。

 コメントを寄せていただき感謝しております。今一度、襟を正そうという気持ちになりました。
 自分の好悪や主張にはそれなりの信念がありますが、同時に他者のどのような好悪や主張も筋さえ通っていれば尊重し、介入するつもりはありません。じゃむさんの考えは真っ当である一方、私の考えも真っ当だと信じています。しかしいみじくも「美術をダシに」と題していらっしゃるように、この言葉でもって正確な伝達性と説得力が失われ、代わりにバイアスが生まれてしまったこと、これは私の落ち度です。
 今の私には良い勉強になりました。
 この場でご指摘いただいた経験は、今後ものを書く上で再び私を戒めてくれると思います。

 お客さんと楽しい会話のできる学芸員、素敵ですね。私は人を楽しませることはできませんが、話す相手が誰であろうと知的発見の愉しみを得てもらえる(それが相互に成り立てばなお良いですね)、そういう人間でありたいと思います。

>素敵な学芸員になってください。(^^

 はい。戴いたエールには責任を持ちます。
 できれば、貴方にとっても私自身にとっても素敵な学芸員でありたいですね。

お返事ありがとうございます。

ユコさん、こんにちは。
私もとっても勉強になりました。

そうなんですよね、サービス型事業の美術施設は近年増え続けるばかりですよね。
その傾向は、ビエンナーレ、トリエンナーレと呼ばれる企画にも見受けられますよね。
きっと、そのサービス型、観客を参加させて喜ばせたいとかだけに神経が行ってしまうと、ディズニーランドみたいな遊園地とさほど変わりのない場所になってしまうのかもしれませんね。
もしくは、遊園地の方が観客はよっぽど楽しいと思うのかもしれません。
美術館と遊園地を比べたりするな!っとお叱りの声が飛んできそうですが。(^^;

サービスといえば、これも美術館でのサービスだと思うのですが、私があまり好きではないサービスがあります。
作品の前に立った瞬間に解説をしてくる(くださる)学芸員の方、もしくは美術館のボランティアの方々。
解説をしてくださるのは嬉しいのですが、何だかわからないような作品でも、まずは自分の力で観て、それから興味があれば解説などを聞きたいと思う方なんです。
解説をされてしまってから作品を観ると、見る側の視点が既に解説どおりの見方しか出来なくなってしまう傾向が多く、楽しみや余裕が減ってしまうんです。
全ての方ではないですよ、でも時々観客をみかけると、直ぐに寄って来て説明をされる人がいますし、そういう場面を見かけるんです。作品を多くの人に理解して欲しいとか、作品を好きになって欲しいとか思ってのことなんだと思うんですが、言い方はきついですけど、営業マンみたいなことしないで!って思った経験があります。
映画なんかと一緒です。映画の話の内容や評論を色々知ってから観ると、楽しくないと思うんです。
と、非常に個人的な意見です。
将来の学芸員ユコさんに言ってみました。(^^

遊園地と学園祭

 再度のコメント、ありがとうございます。

 じゃむさんの喩えを読んで思い出しましたが、川俣さんがディレクターを務めた横トリ2005は、学園祭に喩えられることが多かったようです。
 曰く「参加すればするほど得られるものも多く楽しいが、内輪の盛り上がりには疎外感を感じる」。
 通路展の現場を覗いても、川俣さんご本人は、サービスするとか巻き込むとかではなくて、楽しみたい人が楽しめばそれでよい、というスタンスをとっていました。それとは別に、全員(会期前なら作業メンバー全員、会期中は来館者全員)が心地よく過ごせるように、という優しさをお持ちの方でした。

 彼の過去のプロジェクトを省みると、社会の開かれた一場面に構造物を組み入れて、そこで生活する人々をとりあえずびっくりさせ、そして新たな視座へのチャンスを授ける。その上で、介入したい人には自由に介入してもらうというプロセスが常にあります(と、私は解釈しています)。ここでも態度が一貫しているのが感じられます。
 しかし一方で、横トリと通路展は基本的に閉じた領域で行われ、入場にはお金が要ります。そしていずれも川俣さん個人の仕事ではありませんし、彼が全責任を負うというわけでもありません。
 こうした性格の違いが、賛否両論を呼ぶ「学園祭」という比喩を生んだのでしょう。ただ、サービス満点の遊園地でも、型どおりの美術館でもない場所を生み出す彼の仕事に学ぶべき点も、沢山あるように思います。

 作品と向き合いたい時に声をかけられるのは、私もとても嫌です。
 一方で、喜ぶ方が居ることも容易に想像できます。大きな展覧会に用意されている音声ガイドは、いつ見ても来館者に重宝されています。
 知識と鑑賞体験を同時に得ることで、見過ごしがちな作品の面白さも分かり、見応えのある展覧会だった、と満足できるのでしょうね。

 いずれは同業者としてひと言言える立場になりたいですが(こう書くにも身の縮むような思いです)、今の私が考えるには、率直に「まずは自分の眼で見たい」と伝えるのが良いと思います。
 結局そう口に出した時のつまらない空気が気になって上手くいかないかもしれませんが、相手だって人一倍美術鑑賞を好んでいるはず、きっと身を引きます。
 あとは、ギャラリートークの時間帯を外すとか、意見箱に投書するとか。
 ホワイトキューブが静まりかえるあの雰囲気が好きな私も、今度そういう方と出会った時は、とりあえず尋ねてみます。
 でも、サービス精神に欠ける公共施設の多い中、美術館に勤める方々の熱意と善意は感動的ですね。

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ユコ

Author:ユコ
芸術学科所属、
日本美術史を専攻します。

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